財田川事件の犯人は谷口繁義なのか!?賠償金や生い立ち!現場は?【アンビリバボー】

「アンビリバボー」に財田川事件が特集されます。

財田川事件の真相や犯人とみなされた谷口繁義の今現在、賠償金や谷口繁義の生い立ちについて見ていきたいと思います。

財田川事件とは、中々知る人ぞ知るマニアックな事件として歴史に名を刻んでいますが、一体どんな事件だったのか?現場はどうだったのか?

また谷口繁義とはどんな人物でどんな生い立ちをしてきたのか?

早速見ていきたいと思います。

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そもそも財田川事件とは何ぞや?

1950年、香川県三豊郡財田村で、一家と別居しひとりで暮らしていたKさ んが寝巻き身なりで亡くなって発見された。

警察は、Kさんがエージェントをしていたと考えられている闇米の関係者などを順 次取り調べていったが、1カ月たっても犯人のメボシはつなげられない。

また同年に、隣の神田村で強盗傷人事件が発生した。

その事件の犯人 という形で、谷口繁義と他1名が逮捕されたが、警察はこの2人をK さん殺害の容疑で追求し始めた。

よその一人はアリバイが証明されたが、谷口さんははっきりつなげられない為、警察は 谷口さんを殺人の犯人とにらみ長く拘留してハードな取り調べを続け、まとめると谷口さんはKさん強盗殺人罪で起訴となった。

谷口さんは公判スタート時より一貫して無実を訴えたが、第一審の高松地裁は、捜査 ランクでの「自白」を最大の証拠という形で、「死刑」を判決、高松高裁に対する控訴および 最高裁に関する上告はどこにしても棄却となった。

「自白は拷問によるものであり、証拠は警察に対する証明されるものではなくどれをとっても明白ではなくでっち上げ」といったようにし て再審請求がなされたが、2度目の請求で再審スタートが裁定。

その後の高松地裁についての 再審裁判などに於いて、無罪が宣言され、免田さんに重複する2人目 の死刑確定者の再審無罪による生還となった。

逮捕・拘留されていた時間、谷口さんは一通の手記を書いた。

これに関しては、全部がひ らがなで書かれ、ディテールは当時見た夢なのだという。  とは言っても、裁判所に提出されて裁判の証拠にされた手記は別個のものだと言う。

これらは、多少の度合い外れ等が存在するとしても、トータルでまとまりがあり、事 実関係や心情などがよく表現されており、想像以上に小学校しかでていないので漢字も満 足に書けない人間の書いたものとは思えないのもだった。

もっと言うなら、文中に作為的という様な誤りがとんでもなく多くみられ、それに加えて、その誤りはすべてに関することまで一貫性に欠き、極めて同一人物が書いたものとは思えないもの で合致した。

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財田川事件の賠償金とは?

男性の遺体が発見された。この男性は闇米エージェントだったとなっておりており、所持金の1万3000円が奪われていた。

同年その隣町の神田村で、地元では熟知していない者のいないほどの不良2人組による強盗事件が発生した。

警察は、ためらわずに犯人に目星をつけた。財田村に住んでいる不良2人組の犯行だと考案したのだ。

この2人は「財田の鬼」と評価されるほど恐れられていたと言われる。

とは言っても、2人組のうちの1人は、事件当時にアリバイが合致したことが証明されている。 警察は諦めて、アリバイ成立に不信感の残っていた1人を2ヶ月もの間留置所に入れ、四六時中のように取調べを実践した。

そんな意味からも「自分自身はやっていない」と言い切るこの不良に向けて、警察はようやく自白を強要させ、起訴に踏み切った。

たが、自白強要と拷問による自白は証拠とはならない。

だけども裁判では、捜査機関に左右されて不正制作された資料に従った証言が行われており、これに頭を悩ませた裁判長は、「財田川よ、心あるとすれば指導してくれ」と言われる心境を吐露してくれている。

判決は、警察の根本に基づいて有罪がジャッジしたものの、このインパクトは広範囲にわたる国民に疑問視され、ほどなくして警察がでっち上げのレポートをしていたことが明らかになった。

キーポイントとなる真犯人は、原則的に捜査の手を免れている。

刑事補償の金額は、日割りで1000円~12500円と決まっている。

1000円~12500円の内からどれをチョイスするかは、補償の請求を受けた裁判所それ以外の裁量に影響を受けて決められる。

期間の長さ、どのような拘束を受けたか捜査機関のつまずきの有無、間違いなく受けた資産的マイナスそのほか、まるっきりの基盤が考慮されると断言する。

自分自身の年齢やコミッションスキルなども加えてなのだという。

⇒赤報隊事件の犯人は島村征憲が自作自演なのか!?右翼や真実は?【NHKスペシャル】

谷口繁義は犯人ではない!?

早速、警察が現場検証を実行する。様式から「情交のもつれ」、「怨恨」の線が考案された。が、捜査は依然として前進しなかった。

杉山事件時のアリバイが焦点となったが、谷口の仲間は当日のアリバイが現実になり白となる。

が、谷口のアリバイは現実的なことをできず警察は谷口犯人説へ急激に傾いた。 取り調べは2年前の免田事件と同じ様なもの過酷を極めた。

谷口に対しては2ヶ月間もの過酷な取り調べが続く。現実には、谷口は心身的に限界まできて、いよいよ「自白」に追い込まれたと言う。

その後、谷口は強盗殺人罪で起訴された。

谷口は「自白は強要されたもの」という形で容疑を文句無しに否定、無罪を訴えた。

しかしながら、血液鑑定それ以外のスタイルから谷口に死刑判決を下した。1956年2審で死刑判決。

最高裁で死刑がジャッジした。

その他として、死刑が決定したあとに再審に影響を受けて無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の4件が存在する。

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谷口繁義の生い立ちは?

現金1万3000円が奪われた。

犯人が見つからないまま谷口はこの事件に関連して全力を傾けて自白し懲役3年6カ月の判決を受けた。

しかし同年谷口は嘘の自白を実践し起訴されることになった。

一審の公判の時には罪状認否で全面否認し、「拷問による自白」という形で無罪を主張したが却下され死刑判決。

控訴審につきまして無罪を主張したが高松高裁は谷口の控訴を棄却。

谷口の死刑は決定した。

輸送予定の刑務所には死刑設備がないため谷口は大阪に移送された。

死刑確定囚となった谷口は1957年3月に第一次再審請求を実践したが棄却。

1964年には私信の身分で高松地裁に手紙を出し、再鑑定を条項。

この手紙事態が何年も放置されたが、新しい判事になったものが再審請求を出すかどうかの問合せの手紙を出し、谷口は再審請求の受理を志望する旨を答えた。

谷口はとどまることなく最高裁に特別抗告をスタートした。

最高裁は高松高裁のジャッジを取消し、高松地裁に対する差戻しを審判。

高松地裁は再審開始をジャッジし、84年に高松地裁は谷口に無罪判決を言い渡した。

谷口の獄中人生は34年の月日になり警察のずさんな捜査と自白の強要は社会問題までなった。

その後、谷口は2004年から身体の具合を崩して入院、2005年に病死。

享年は74歳である。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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