野村克也の兄や実の兄弟の最近はいかに!【爆報フライデー】

「爆報フライデー」に野村克也さんの兄や実の兄弟の最近を見ていきたいと思います。

野村克也さんこと、ノムさんに兄がいた事は中々知られていませんが実の兄弟が居たことが判明しました。

野村克也さんは嫁の野村沙知代を亡くしてから1人で生活を送っていますが、今現在や最近などはどうしているんでしょうか?

亡くなってからは孤独との戦いを強いられていると思いますが、そんな中でも兄の存在があったとは心強いと思います。

今回はそんな野村克也さんの兄の状況や実の兄弟がいた事などをピックアップして行きたいと思います。

では早速。

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野村克也の武勇伝は?

ノムさんは、京都府北部の海辺の町で育ちました。

3歳時点で父親が戦病死し、母親ががんで倒れ入院生活が始まりました。

兄と3人借家在宅の貧しいライフスタイルの中、小学生けれども食べていくためには働かなくてはなりませんでした。

新聞配達、農家のお手伝いと精一杯のパートをやりました。

その頃はよその子供と比較して自由に遊びに行けないという意識が当時の彼には辛かったそうです。

経験を振り返れば労働することで足腰の強さや頑張りぬくスキルが淀みなく身についていたように感じられます。

病身ながらも母が生きていてくれたというのも幸いでした。

万が一母が死去していたら、自分自身はどこかに預けられ、野球に進んでいくことも出来なかったではないでしょうか。

小学校4年生で終戦を迎え、相変わらず貧しいライフスタイルでしたが、夢だけはかなり大きく持ち、絶対金持ちになって母に楽をさせたいと心に決断していました。

とは言っても、必死に考えようにも何のアプローチもなく、目に入ってくるのは歌手や映画俳優、あるいはプロ野球選手の華やかな快進撃となります。

歌手を夢見てコーラス部でトレーニングしたわけですが、素質がないと熟知しました。将来において自分自身にはプロ野球しかないと意を固めたのはそういったケースとなります。

中学の野球部時代も働かなくてはならず、トレーニングもままならない。

それに加えて、母親は中学を出たら雇い入れして欲しいと力説する。

そういった時、バックアップしてくれたのは兄だったという。

男の子ならどんなに悪くても高校くらいは出ておかないと、大人になったら修行すると言って母を説得し、決められた大学進学を断念して自分自身を高校へ行かせてくれました。

学問の好きな兄が自分の今後と引き換えにして守ってくれたと言います。

貧しい経済環境も言ってみればキャパシティーなのだと、プロ野球選手になれたタイミングで気付きました。

入学した峰山高校は野球部員が数人しかいない弱い高校で、ノムさんが3年のケースでは廃部の危機に陥りました。

顧問が、学習もろくにしない野球部をなくそうと主張したという理由です。

さらには先生と接触するタイミングを増やすため、生徒会長に立候補。仲間に頼み込んで当選するのです。

先生に野球のポイントを伝え、訴求するうち、今度は先生が夢中になり野球部は廃止を逃れ顧問にまでなってくれたという理由です。

後にプロ野球のチャレンジを受けるためPR状を書いてくださったのもこの背先生だといいます。

このご時世、高校生といわれるものの、想像以上に冷静にプロ野球団のスタイルを研究していました。

キャッチャーで入団するにはどこならパーセンテージがあるか。

20代のレギュラーがいる球団には入り込む余地が欠けている。

そのような中で、南海と広島のレギュラーの捕手はベテランのキャッチャーでした。

ノムさんは最低でも下積みをしなくてはならないと考え、そのためには引退を考える年齢に達するキャッチャーがレギュラーをはっている球団がベストと選択するようになる。

南海は2軍選手を育てるのもうまいと了解していたので、ノムさんは迷わず南海に絞ろうと考えられている回答に達したのです。入団テストはパスしたわけです。

人は、夢があり好きなことならやればやるだけ頑張りつづけられる。彼はその状況を実感したと語っている。

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野村克也に兄がいたのか!

ノムさんの兄は 京都の人で、夫婦で穏やかな老後を過ごされているのではないでしょうか。

成人に相当するお孫さんも二人おり、友好的なおじいちゃんとなります。

某有名企業を定年後、数年は系列企業に業務され、最近では悠々自適の老後となります。

父を戦争で亡くし、母子家庭。 母は二度の癌から、奇跡的に生還した。 母の病院入院中、親戚の家に預けられ、そこから学校小学校に通っていた辛く悲しい日常生活だったそう。

母が医療施設から退院してくる日、母に出来るだけ早く会いたくて、当時は一日のうちに4本しか結びつかない汽車を、駅で2時間も以前から待っていたと言う心優しき少年だったそうです。

母の内職、兄もパート。家賃が払えなくなってしまうと、より安い賃貸に引っ越しの繰り返しで小学生から新聞配達をしていたそう。

高校時代にはノムさんと狭いアパート暮らしで、 その上斜めに傾いた部屋で、室内では真っすぐに立てない程だったと語る。

とてつもない地震が来たらそく終了の家で不安定な暮らしが続いたがそれでも 母が病後でもあったこの頃が、何よりもくらしが苦しかったそう。

そういった極貧のライフスタイルから抜け出したい思いだけでノムさんと生き抜くために毎日が必死だったそうです。

⇒伊藤智仁と野村克也の伝説!今現在や嫁と子供は?スライダーがエグい!【消えた天才】

ドツボの貧困生活だった

当時、資金が無くても、自分達のスキルでお金が儲けられる花形のルーティンワークは、映画俳優、カラオケ歌手、俳優だったと言う。

弟のノムさんにはプロ野球選手を目指すべく後押ししてあげたり、家が貧しかったので、進学はせずに、中卒で労働するよう母に言い表される。

それでも、必ず将来の投資へと思い母親には弟のプロ野球への道を進める。

やがて克也は高校を卒業。 勿論の事甲子園は体験していないし、スカウトなど来るはずもない。

やがてたった一人でチェックして、プロ野球の入団テストを受講することに。

貧困時代から脱却するために 必ず金持ちになる!

その思いだけが弟への後押しとなりそれにノムさんも答えました。

野球イコール遊びで、道具を隠されたシーンも合致した。

ポジションは最初から捕手。一人だけ防具をつけるから格好よくてな。以来、ほかはやった体験が無いと語る。

母からの猛反対があったが、兄の説得で京都・峰山高校工業化学科へノムさんは通い出す。

京都の田舎からホームグラウンドの大阪球場までの電車賃が足りない。落ち込んでいると、先生が貸してやると言ってくれた。しみじみ生涯は縁だと想ったと語っている。

今後の人生を兄と有意義に過ごして頂きたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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